東日本大震災から12年…

東北地方太平洋側を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災から12年が経過しました。干支が一回りしたことになります。

2011年3月11日14時46分に発生、激しい揺れは最大6分間も続きました。通常、大地震は長くても揺れは2~3分程度ですが、これほど長く揺れたのは初めてでした。

この日は夕方より北海道へ旅立つために午後半休を取得していましたが、新幹線をはじめとした鉄道インフラがマヒし、中止となりました。

 

十和田湖
オオクワガタ採集を目的とした夏の東北遠征が始まったのもこの年からです。震災直後は過度な自粛ムードに見舞われましたが、次第に落ち着きを取り戻し、復興支援にできることは何なのか、意識も芽生え始めました。

この頃はまだ寝台特急「あけぼの」「日本海」が健在であり、寝台列車撮影も同時にできることから、オオクワガタを自力で野外採集するなら東北地方…を選んだのです。

観光面でお金を落とすことで復興支援につながり、趣味と実益を兼ねているため一石三鳥、2017年に福島県でオオクワガタを初採集した後、現在も続いています。

 

石巻駅 石巻駅
この年の11月は初めて被災地を訪れています。SL運転がきっかけですが、石巻が最初に訪れた被災地でした。駅は海岸から2km以上は離れており、市街地は目立った被害の痕はありませんでした。

仙石線用の205系が側線に留置されています(左写真)が、津波で床下機器が冠水しており、走行不能になりました。1年半後の2012年9月に総合車両製作所へ甲種輸送されましたが、仙石東北ラインの開通で205系の運用が減るため、HB-E210系に置き換えた方が得策との判断から2014年に廃車されました。

右写真の赤ラインは震災時、津波がホームまで浸水したことを伝えており。2km以上も遡上したきたことから地震の規模の大きさを物語っています。

震災から干支が一回りした現在、復興は進んできたといえば、人口減が足かせになっている地域もあります。

国にはより一層の取り組みが必要になるとともに、インバウンド効果による外国人観光客の増加が復興支援になることを願ってやみません。

東日本大震災10年

今日は東日本大震災から10年です。週1の出社日でしたが、職場の入居しているビルにて15:00~15:10の間、防災訓練がありました。

10年前の今日、当然ながら転職前でした。あの日は金曜日で夕方に新幹線と夜行列車乗り継ぎで北海道へ旅立つため、午後半休を取得していました。出発準備を終え、しばらくのんびりしていると…運命の14時46分に突然揺れ始めました。

揺れはすぐに収まるどころか大きくなり、長く続きました。そんな長く大きな揺れにパニックとなり、慌てて外へ飛び出してしまいました。外へ飛び出ても揺れはしばらく続き、やっと収まって戻った頃には部屋中が散乱していました。

東京では23区で震度5強、都下では震度5弱でした。揺れた時間が長く、東北地方中心に被害が出たために新幹線もストップ、当然ながら旅行中止となりました。幸いだったのは、出発前で在宅時だったことです。

当時勤務していた会社へは自転車通勤だったので、会社で被災しても自転車で帰宅はできたことでしょう。しかし、遠方から電車通勤している場合はそうはいきません。鉄道が復旧するまで帰ることはできないうえに当然、職場内に2~3日間、もしくは数日間は留まることとなります。

今回、会社で実施した防災訓練では有事の際に落ち着いて行動できるようにするという目的もあります。会社近くには新宿御苑があり、かなり広いので大震災発生時には広域避難所になりえるのでしょうか。

訓練前に上司から説明があり、同時に10年前の震災当時には慌てて外へ飛び出てしまったことを打ち明けました。

今の会社は都心部でビルが密集しているところなので、慌てて外へ飛び出るとガラス破片の雨でかえって危険なのです。揺れが収まり、安全が確認されてから屋外避難するのが賢明な選択といえるでしょう。

実際、東日本大震災では在宅時、2004年の新潟県中越地震時は旅先(会津若松)で被災しています。後者は屋外にいる時に突然揺れ出しました。会社にいる時、在宅時、旅先など、いつ、どこで地震に遭うかはわかりません。

10年経つのは早いものです。震災がきっかけとなり、復興支援の一環で東北へ行く頻度が増え、夏にオオクワガタを採集を目指す様になったのも事実です。

震災の記憶を風化させてはならず、次の10年に向けて今、私たちにできること何か、考えて前へ進んでいかなればなりません。

震災から9年…

今日で東日本大震災から9年経ちました。今年は新型コロナウイルス感染対策で政府主催の追悼式は中止になりました。

9年前の今日は午後半休を取得し、夕方の新幹線で北海道へ行く予定でした。東北新幹線で新青森へ行き、奥羽本線普通列車で青森、そして急行「はまなす」で翌朝に札幌到着予定でした。

急行「はまなす」は青森駅発着で、新幹線の新青森駅とは1駅間だけ奥羽本線列車を使う必要がありましたが、乗り継ぎ割引は適用されていました。

出発前の14時46分、揺れ出したと思ったら揺れは次第に大きくなり、揺れは6分間続きました。揺れている最中、慌てて外へ飛び出したため、揺れが収まって戻ってみると部屋の中は散乱状態でした。もちろん、鉄道運行はストップ。当時は転職前で自転車通勤だったことと、午後半休を取得していたので帰宅難民にはならずに済みました。

当初予定した北海道行は中止、翌年1月に寝台特急「日本海」撮影と合わせて行くことになり、夜行バスも利用していました。

14日にはいよいよ常磐線が全線復旧します。上野から仙台までの直通特急も復活するだけでなく、品川駅からも直通運転します。新幹線で東京から1時間30分程度ですが、常磐線特急は3倍以上の4時間半以上もかけて走ります。

常磐線はまだ未乗区間が残っており、いつの日か全線走破を果たしたいものです。

2011年11月には石巻線、東北本線、陸羽東線でSL運転があり、3週連続で宮城、岩手、山形の3県を訪れています。当時、(転職前)会社内の一部の人から東北へボランティアに行く等の噂が立ったことさえありました。

震災から9年、来年で10年の節目を迎えます。政府は来年限りで追悼式を取りやめる方針ですが、決して震災の記憶を風化させてはならず、後世へ語り継いでいかなくてはなりません。

 


※復興の鐘/2012年5月19日撮影

震災から8年

アメブロからWordPressへの移行で、2月以前の過去記事についてはネットで方法を調べたところ、fc2を介する方法に落ち着きました。6年分のデータですから記事は2000件以上、写真だけでも数千点に及びます。そのため、一旦移すだけでも数日かかります。

アメブロからWordPressへの移行方法についてはこちらを参照してください。

今日で東日本大震災から8年となりました。この日は夕方から北海道へ行くため、午後半休を取得していました。

夕方に東北新幹線で東京を発ち、青森から急行「はまなす」に乗り継ぐ予定で、出発準備を終えて時間を待っている最中、14時46分にぐらっと来ました。すぐに収まるだろうと思っていたのが、揺れは次第に大きくなり、6分間も揺れ続けました。

この後、テレビで東北地方で大変なことが起こっていたことがわかりました。携帯電話はつながりにくくなっており、16時頃に情報収集にと駅へ向かってみましたが、電車が止まって足止め食らった人たちでいっぱいでした。

府中本町駅までたどり着きましたが、窓口も人が多く問い合わせできる状況ではありませんでした。

この時、北海道行は中止が決定しました。指定席券類の払い戻しもできず、翌日に橋本駅まで行き、照明を受けてから後日払い戻しとなりました。GW頃までは無気力状態で写真を撮る気もおきなかったんですよね…。

この年の11月には石巻、東北、陸羽東線の各線でSLが運転され、3週連続で撮影に行きました。

 


※SL快速「SL石巻復興号」

石巻線の「SL石巻復興号」を皮切りに3週連続の東北遠征は想像しえたのでしょうか?仙石線の一部区間が長期間不通のため、2015年に全線復旧するまで石巻線は迂回代替ルートとしての役割を担うことになったのです。

 


※SL快速「SLがんばろう岩手号」

2週目は東北本線の「SLがんばろう岩手号」です。C61にとっては復活後初の出張運転となりました。現役時代、寝台特急等を牽いた道を復興への願いを乗せて走り抜けたことでしょう。

 


※SL快速「SL湯けむり復興号」

3週目は陸羽東線の「SL湯けむり復興号」です。2008年のD51故障による代走以来、2009年に続いて3度目の陸羽東線走行でした。この時は新庄へも抜けましたが、滞在時間はわずか数分でした。

陸羽東線沿線には鳴子温泉や中山平温泉といった温泉地を抱えているため、復興支援として温泉への観光客誘致も願っていたのでしょう。

この時は11月第3週に1週間丸々連休を取得していたので、東北地方へボランティアに行く等と当時の会社内で噂されたそうです。

震災から8年が経ち、鉄道網も復旧が進んでいますが、今でも東北地方への思いは変わりません。それは同時に震災の記憶を決して風化させてはなりません。

生きている限りは記憶をとどめ、後世へ語り継ぐことが使命といえるでしょう。