2008年の今日は…

今日はすっきりしない天気で日中は雨が降り、寒い1日でした。

 


今日は今から13年前の2008年に0系新幹線が営業運転を終了した日です。1964年の東海道新幹線開業時から44年間の歴史に幕を下ろしました。

0系新幹線は子供の頃、憧れの的でした。1986年までの22年間に3216両が作られましたが、全3216両が同時に在籍したことはありません。新幹線車両は高速・長距離運転で金属疲労も早く、耐用年数は13~15年程度です。山陽新幹線が博多まで伸びてからは走行距離が伸びる一方で、車両寿命が短くなっています。

例えば「のぞみ」で東京~博多間を往復した翌日は予備運用または東京~新大阪間の運行など、車両に負担のかからないローテーションが組まれているのです。

博多開業の翌年から代替廃車が始まりましたが、0系の代替新造は0系という状況が1986年の100系量産車登場まで続いたのです。

東海道新幹線では「のぞみ」増発の際に足の遅い0系は次第に足枷となり、「のぞみ」の直前に東京駅を発車した「ひかり」が退避駅まで逃げ切るには「のぞみ」と同型車でないと不可能で、「ひかり」運用から急速に撤退し始めたばかりか、100系も「こだま」へシフトし始めたのです。

1999年に東海道新幹線から撤退後は4両または6両編成に短編成化されて山陽新幹線の「こだま」中心に残りましたが、2008年11月初旬の九州遠征が最後の撮影になりました。

2002年から塗装変更されましたが、終焉間近になって旧塗装へ戻されたことは最後の花道だったといっても過言はないです。0系の後に作られた100系・300系も2012年までに全て引退しましたが、500系、700系、N700系にその血脈は受け継がれています。

700系新幹線の思い出

一昨日のラストラン予定が新型コロナウイルス感染対策のために中止、1日が実質ラストランとなった東海道新幹線の700系。最後に東海道新幹線を利用したのは2009年11月だったので、10年以上乗っていないことになります。

1999年3月のデビュー時は「アヒル新幹線」等と話題になりました。JR東海とJR西日本が共同開発した新幹線電車で、300系と500系の合いの子ともいえます。最高時速は285km/hに抑えられていましたが、東海道・山陽新幹線では最も多く利用した車両でした。

2009年4月、下関でいわゆる合コン…オフ開催のために帰省した時の写真の一部ですが、紹介します。

 


2009年4月25日、1987年8月以来22年ぶりとなる下関帰省では「のぞみ」と「ひかり」で2種類の700系を乗り継ぎました。

2003年10月の品川駅開業で「のぞみ」が大増発され、電光掲示板には「のぞみ」ばかりが表示されています。その代わりに「ひかり」は半数以上が削減され、1時間2本となっていました。

それでも新大阪発着が半数以上ですけどねf(^_^; それだけ東京と大阪の往来がかなり多い証拠ですが、輸送力がひっ迫しているので、北陸新幹線や中央新幹線によるバイパスも必要な状況には変わらないですが。

 


東京駅8時23分発の「のぞみ211号」でまずは新大阪まで行きました。広島または博多発着の長距離列車だと混雑が激しいので、あえて新大阪行の東海道新幹線内列車を選びました。

乗車したのはC3編成でJR東海車です。1999年2月に製造された1次車で2013年2月に廃車となりました。運用期間は14年でしたが、新幹線車両は高速運転だけでなく、金属疲労も早いので平均寿命が15年程度なのです。東海道・山陽新幹線だと、東京~博多間を片道1000km以上往復しているのですから、13年程度と短いです。

博多まで往復した翌日は東海道新幹線内完結列車に充当したりと、運用の工夫等で関係者の苦労は絶えなかったことでしょう。このことは北海道新幹線が札幌まで延伸する2030年以降、東北・北海道系統でも起こりうると思われます。

逆に東日本の新幹線車両はと、2002年12月に東北新幹線が八戸延伸するまで長くても東京~盛岡間(ミニ新幹線となる山形・秋田は含まない)で500kmぐらいでしたから走行距離も短く、車両寿命が長かったのです。

この当時、製造後10年経過していましたが、それから4年後に廃車されるとは思ってもいませんでした。

 


2時間半程度で新大阪に到着、「ひかり559号」に乗り継ぎました。新下関に停車する「ひかり」は1日4往復程度だったので、停車する列車に合わせて選んだのです。

「のぞみ」で広島まで行き、「こだま」に乗り換えてもよかったのですが、2009年当時は山陽新幹線内でまだ100系が走っており、最高時速は220km/h。当時「のぞみ」で走っていた500系と最新鋭のN700系は300km/hで、当然ながら速度差は80km/hも大きく開いています。
「こだま」に乗ると、ほとんどの駅で「のぞみ」「ひかり」の退避を強いられて時間がかかりすぎます。

あえて新下関停車の「ひかり」を選んだのは、普通車指定席が2-2列でグリーン車並みに快適という点もあります。

広島までは「ひかり」の標準的な停車駅で、広島~小倉間で停車駅パターンを変えているのも見逃せません。大半が新山口に停車しますが、徳山のみ停車、徳山・新山口連続停車、新下関停車のパターンが少数ながらありました。

JR東海車と塗装は異なりますが、同じ700系です。JR東海は「のぞみ」に優先投入、JR西日本は山陽新幹線内の「ひかり」に投入してテコ入れを図るという考えでした。後に、JR西日本も東京直通用に100系「グランドひかり」の代替でB編成を投入しました。

結果的に5時間程度で新下関に到着、到着後は迎えに来てもらいました。かつて0系で京都以西各駅停車の通称”ひだま”で7時間かかったことを考えると、2時間近くのスピードアップは大きく、隔世の感がありました。

この時乗車したのはE6編成、2000年4月製造でまもなく20年になります。新幹線車両の平均寿命である15年を越えてまだ現役なのは、山陽新幹線内だけの運用で、走行距離が片道最長で560km程度と短く、九州新幹線全通後は「こだま」中心に運用されています。現在は「こだま」がほとんどなので、車両寿命が延びる要因になったのは皮肉なものです。

東海道新幹線から引退しても、山陽新幹線ではもう暫く走り続けるでしょうし、N700系や九州新幹線800系にも血脈は受け継がれていくのです。まだ話足らないところもあると思いますが、また別の機会に。

思い出の一コマ・寝台特急「日本海」

昨日に引き続き、関西圏で撮影した寝台特急「日本海」の写真を紹介します。

 


※寝台特急「日本海」/東海道本線長岡京~山崎間にて・2009年11月7日撮影

2009年11月に撮影した一コマで、この時は2往復から1往復に減便されていました。ダイヤは旧1・4号のスジが残ったので、関西圏では明るい時間帯に上り列車を通年で撮影できました。

しかし、客車はJR東日本受け持ちとなり、JR西日本は機関車のみの受け持ちとなりました。

よく見ると、客車編成の半分程度が金帯車になり、白帯車との混成で不揃いになっています。

帯の色だけでなく、折戸・引戸も混じりバラエティに富んでいましたが、利用客の減少で廃止されたのは残念です。

今となっては思い出の一コマですが、撮影できる時に撮影してよかったと思います。

思い出の一コマ・寝台特急「日本海4号」

現職生活を終えて一夜明けました。現職生活を終えたとはいえ、正式な退職日は2月29日です。実質的にはまだ退職はしていないことになります。29日は休暇を取得しており、新会社への出勤準備に充てます。

facebookのグループにて、Nゲージで寝台特急「日本海1・4号」編成に食堂車を組み込んで走らせた動画が投稿されていたので、便乗して思い出の一コマを紹介します。

 


※寝台特急「日本海4号」/東海道本線山崎~高槻間にて・2008年2月29日撮影

紹介するのは2008年2月29日に関西遠征で撮影した寝台特急「日本海4号」です。この年のダイヤ改正では「銀河」「なは・あかつき」の廃止、「北斗星」「日本海」の減便でした。

「日本海」が減便された際、廃止されたのは旧2・3号のスジで、旧1・4号のスジは残りました。しかし、西日本編成が引退、東日本編成が残り、開放A寝台が最後まで残る形となりました。

東日本編成が白帯と金帯の混成に対し、西日本編成はA個室車以外銀帯で比較的揃っていました。

青函トンネルが開通した当初、食堂車復活が計画され、車両は遅れて登場しましたが、琵琶湖一周クルーズ等、団体列車で使用されたのち、結局は組み込まれることなくダークグリーンに塗装変更されて「トワイライトエクスプレス」に転用されました。

長らくオールB寝台のモノクラス体制が続き、「出雲2・3号」「瀬戸」の285系電車化で捻出されたA個室車が転用されて当初計画と違った結果になったものの、撮影してよかった思い出の一コマです。

3月改正で消えゆく列車・4-寝台特急「トワイライトエクスプレス」

facebookにて、気になる記事がシェアされました、リンクはこちら です。

マイナビニュースにて、「鉄道ファンと付き合ってよかった5選」という記事で、その記事を見ると本当に嬉しいことがびっしりと書かれていました。詳しくはリンク先をご参照ください。

10年ぐらい前、ネットで元相手と知り合ったのですが、結局は1度も会わずに終わりましたが、付き合って楽しいどころか逆につまらないという考えだったのでしょう。末期には私の人格そのものを否定しましたから、その裏切りはいつか必ず自分に返ってきます。

最後に浮気を告白したのですから、逆に本命の相手(もしくは現在の夫)に浮気されて別れる(もしくは離婚)という形で自分に返ってくると確信しています。下関帰省時にオフで人と会ったこともサクラと否定したのですから、許しがたい事実です。

下関オフは、1987年以来22年ぶりに帰省するきっかけとなったのは事実です。新幹線で新下関駅に到着した時、子連れで迎えに来てくれました。約束を遵守してこそ、出会いにつながり、幸せへのステップを踏むことにもなるのです。それを真っ向から否定することは、確実に不幸は訪れるということなのです。

記事を見て、鉄道ファンやってて本当によかったと思っていますo(^▽^)o

 


※寝台特急「トワイライトエクスプレス」/東海道本線高槻~山﨑間にて・2008年2月29日撮影

来る3月改正では、寝台特急「トワイライトエクスプレス」が運転終了します。最終運転日は3月12日始発で、ダイヤ改正日にまたがる運転はしないとのことです。

北陸新幹線の金沢延伸で並行在来線がJRから経営分離されるため、今までの3社直通から6社に増えます。ダイヤ調整や第三セクター会社への乗り入れに伴う線路使用料の発生、ひいては運賃・特急料金の値上げにつながるのが本当の理由です。

写真は昨年5月29日の記事に掲載したものの再掲です。通称“サントリーカーブ”からの撮影ですが、現在はフェンスが立ったため撮影が不可能になり、今となっては貴重なワンカットです。

 


※寝台特急「トワイライトエクスプレス」/千歳線上野幌~新札幌間にて・2012年3月10日撮影

2012年3月の北海道遠征で撮影したワンカットですが、好天に恵まれ線路の雪は解けていました。柔らかな陽光が春の訪れを告げている様でした。早春の雰囲気で撮れはしたものの、雪煙を巻き上げて疾走する迫力あるカットが撮れなかったのは残念です。

この頃、北海道に着いて花粉症の症状が治まったのに気づきましたが、まだ“避花粉”という概念はなく、札幌に1泊のみでした。翌年も同様に1泊だったので、非電化区間での撮影を含め、本格的な避花粉は2014年まで待たなければなりませんでした。

寝台特急「トワイライトエクスプレス」はまもなく運転終了しますが、愛称は2017年春にデビューする「瑞風」に受け継がれます。

運転終了後も次回全検までは客車はJR西日本管内のクルーズトレインとしてしばらく使用されるので、機会を見つけては最後の撮り納めをしたいですね。

晩秋の早朝

今日10月14日は鉄道の日です。台風接近に寄り、首都圏の通勤への影響が懸念されましたが、朝には台風一過で晴れました。

昔の写真を探したら、今から14年前の2000年10月に大阪で撮影した写真データが3点あったので紹介します。

 


※寝台特急「日本海2号」/東海道本線山崎~高槻間にて・2000年10月22日撮影

 


※寝台急行「銀河」/東海道本線山崎~高槻間にて・2000年10月22日撮影

 


※383系急行「ちくま」/東海道本線山崎~高槻間にて・2000年10月22日撮影

3点の写真は今から14年前に撮影しましたものです。駅間が「山崎~高槻間」となっているのは、島本駅が開業していなかったためです。

撮影した場所は両駅間のほぼ中間にあり、徒歩アクセスは厳しいです。幸い、阪急電鉄が並走しているので上牧駅で下車し、アクセスしました。

この辺りは田んぼが広がっており、お米がたわわに実っていました。10月下旬になると日の出が遅くなっており、ましてや西日本ですから東京より概ね15分程度遅くなっています。

朝6時頃に昇ったばかりの、まだ低い朝日が側面を照らしていました。西へ向かう訳ですから、当然機関車前面には日が当たっていませんが、夜行列車で迎える朝の雰囲気を醸し出すことができたと思います。

現在では「日本海」「銀河」「ちくま」「きたぐに」も廃止され、思い出の一コマとなってしまいました。夜行列車の写真を撮り始めてまだ日が浅い頃、本当に全国津々浦々と駆け巡っていたんだなと、若き日の思い出です。

思い出の山陽新幹線0系

明日は上越線でC61+ばんえつ物語客車による「SLみなかみ物語」が運転されるので、撮影に行きます。

今日は山陽新幹線の0系にまつわる思い出話です。東海道新幹線からは1999年に引退しましたが、山陽新幹線では当初2006年(1999年当時の報道)までの予定が2008年末まで残りました。

子供の頃に下関へ行った頃に乗った“ひだま”とは、京都以西各駅に停車する「ひかり」のことで、山陽新幹線内では「こだま」の代替も担っていました。

 


※ビュッフェ

JR化後は、1988年から山陽新幹線内で完結する「ウエストひかり」が2000年まで運転されました。当初は6両編成だったのが後に12両までに増結され、ビュッフェも連結されていました。

このビュッフェは「37形式」で、オリジナルは車販準備室の性格が強く、立食スタイルでした。「ウエストひかり」用に改装されたものはテーブル席が設けられ、まさに喫茶店スタイルでした。

1999年4月、山口線へ行くのに東京駅から岡山駅まで「サンライズエクスプレス」に乗り、「ひかり351号」に乗り継ぎました。朝食を食べるために利用し、カレーを注文しました。結果的に最初で最後の「ウエストひかり」ビュッフェ利用となりましたが、貴重な体験です。

 


※0系「ひかり351号」/山陽新幹線小郡駅にて・1999年4月3日撮影

小郡駅(現・新山口駅)を発車する「ひかり351号」です。山口線に乗り継ぐために下車し、反対側のホームから撮影しました。「のぞみ」通過待ちのため、停車時間に余裕があったのも幸いです。

JR化当時、100系はまだX編成7本しかなく、全てJR東海に承継されていました。JR西日本が100系を新造するのは1989年の「グランドひかり」を待たねばならず、100系に準じた塗装になっています。

2000年に700系「ひかりレールスター」に置き換えられるまで、最後まで残った0系の「ひかり」仕業だったのです。

 


※0系「こだま587号」/山陽新幹線小郡駅にて・1999年4月4日撮影

0系最短の編成となった「Q編成」で、4両編成です。主に広島~博多間の「こだま」中心に運用されました。

よく見ると、大窓車が残っています。50年前の東海道新幹線開通時は大窓で、1976年度新製車から小窓になっていました。この時点で経年は25年近くで、新幹線車両の平均耐用年数である15年を大幅に超えていることになっているので、奇跡に近いといってもいいでしょう。

明日は撮影ですので、機会があれば0系に限らずまた紹介します。

寝台特急「トワイライトエクスプレス」遂に終焉へ…

「トワイライトエクスプレス」引退の公式発表&報道から一夜明け、少しは落ちついてきました。1年前倒しでの公式発表はあまりにも寝耳に水でした。

3月に北海道へ避花粉を兼ねて遠征した時はまだ公式には発表されていませんでしたが、非電化区間で寝台列車を撮影したいということもあり、引退前に撮れたことはよかったともいえましょう。

そこで、引退発表を受け、過去に撮った写真のうち、本州内のものを2点ピックアップして紹介したいと思います。

 


※寝台特急「トワイライトエクスプレス」/信越本線青海川~鯨波間にて・2003年7月5日撮影

過去の写真を調べたところ、本州内で撮影した写真は北海道内に比べると少ないです。これは大阪から日本海側を経由するためということもありますが、首都圏から一番近くで乗れるのは長岡からなのと、SLのイベント運転で東日本各地を回っているため、どうしても撮影に行く機会が限られてしまいます。

「トワイライトエクスプレス」の列車名由来は、日本海に沈む夕日からだそうです。ヘッドマークは「日本海」に類似していますが、地色がピンクなのも頷けます。

日本海に沈む夕日バックに撮りたい…夏場限定ではありますが、時は2003年7月5日。翌日の白新・羽越本線へC57牽引の団臨撮影で新潟遠征へ行きましたが、前日までの予報で梅雨の晴れ間が出るとのことで、直接新潟へ行かず、鯨波に寄り道を計画しました。

通過時刻は18時30分前後で、日没時刻ぎりぎりです。夕日に輝く海を強調するため、露出をアンダー目に調整しました。列車はシルエットになりますが、暗くなりすぎない様、露出の調整はかなり難しかったです。

いよいよ通過時刻が迫ってきました。編成で写す訳ではないので、シャッターチャンスは一瞬です。固唾を飲んで撮影した一コマです。当時はフィルムだったので、現像仕上がりまで結果が確認できませんでしたが、数日後に確認すると、ほぼ思い通りのイメージで撮れ、「やった!」と喜んだのを覚えています。

 


※寝台特急「トワイライトエクスプレス」/東海道本線高槻~山崎間にて/2008年2月29日撮影

こちらはJR西日本のお膝元である京阪神での撮影です。大阪始発ということもあり、本州側では大阪口での撮影がほとんどです。

しかし、本州側でしかも大阪口での撮影は2000年10月が初めてで、その次は2001年4月ですからわずか3回しか「トワイライトエクスプレス」を撮影していません。

撮影したのは「山崎の大カーブ」で、サントリーの山崎工場が近くにあり有名な撮影地でした。現在は接触事故防止のため、線路際に高いフェンスが設置されたので撮影は不可能です。この時はまだフェンスが設置されていなかったので、貴重な一コマになりました。

「トワイライトエクスプレス」の廃止まであと9か月となりましたが、残されたわずかな時間で限られた機会を活用して本州内でも撮影したいところですね。あと何回撮影できるでしょうか。

懐かしの0系

今日はまずまずの天気でしたが、雷雨を降らせた寒気がまだ抜けきらず、気温は低いままでした。まだ夜間樹液採集は再開できません。

明日は大宮工場一般公開です。真岡からC12を借りて工場内の試運転線を旧客牽引で走るので楽しみです。試運転線は鉄道博物館まで伸びていますが、煙を出すポイントは限られます。

今回は鉄道博物館には行きませんが、今日も未公開写真を紹介します。

 


※0系新幹線/鉄道博物館にて

今日紹介するのは、いわずと知れた0系新幹線です。今年は0系新幹線の生誕50年になります。

ヒストリーゾーンの一角には0系新幹線が展示されています。展示されているのは、「21-2」号車で、今から50年前に製造された新大阪方の先頭車です。0系は全車電動車だったので、この先頭車は制御電動車と言った方が正しいでしょう。

東海道新幹線開通時は全て大窓で作られたので、50年後の今日も残っているのは奇跡に近いです。

廃車後は長らく大阪にある現在のJR西日本研修センターで研修用に使われていたのです。新人運転士養成のためです。JR西日本から無償譲渡のうえ、鉄道博物館で展示されています。

車内に入ると、転換クロスシートはそのままで、50年前の新幹線開通時を後世に伝えてくれています。しかし、写真を撮り忘れてしまいました…。

 


※0系「こだま(号数不明)」/山陽新幹線小倉駅にて・2008年11月3日撮影

0系を現役時代最後に撮影したのは、2008年11月3日です。3連休を利用して九州へブルートレイン最後の撮影に行った帰り、小倉で新幹線乗り換え待ち時間中に撮影しました。

この年の年末で引退を記念して、旧塗装に復元された編成が最後まで残ったので、ラッキーでした。

やはり0系は白と青ですね!!子供の頃は憧れの的で、下関へ行った時は京都から各駅停車の「ひかり」こと「ひだま」で7時間かかったのも思い出です。

本当はブルートレインにも乗ってみたかったですけどね。ブルートレインの特急料金+寝台料金と新幹線の特急料金はそんなに大差はなかった筈ですけどね。ブルートレインだと高いからダメだと言われたけど、それが余計にブルートレインへの憧れを強くしてしまい、今の様に積極的に撮ったり、模型でのコレクションにもつながっています。ただし、模型での寝台列車コレクションは「北斗星」等の北行きが中心です。

マイクロエースから0系の16両「ひかり」編成の製品化が発表されているので、思い出の一品としてもよさそうですね。

1999年夏に静岡県へ0系の撮影に行ってますので、機会を見て紹介します。